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京都地方裁判所 昭和43年(わ)799号 判決 1971年3月26日

被告人 後藤俊一

昭一〇・六・一五生 自動車運転手

主文

被告人は無罪。

理由

第一、((1)~(6)の証拠略)を総合すると、被告人は自動車運転者であるが、昭和四一年七月一八日午後四時二五分頃、日本高速自動車株式会社の大型バス(名古屋二う一七〇号)に車掌窪田早苗および乗客七名を乗せ、京都市東山区山科勧修寺西宮起点五四・五キロポスト(以下キロポストはいずれも西宮起点)附近の一、〇〇〇分の一七の下り勾配になつており、当時折からの雨で路面が濡れていた名神高速道路上り線を、京都方面から名古屋方面に向け時速約九二キロメートルで運転東進中、前車輪が左に横滑りしたので被告人はハンドルを右、左にきつて進路をたて直そうとしたため、同車が約二五〇メートルにわたつて蛇行したうえ、進路右側の中央分離帯に乗り上げて横転し、その衝撃により乗客後藤隆一(当時四三年)が頭蓋内出血等の傷害により同日午後六時一五分頃、同市伏見区中島宮ノ後町京都南インターチエンジ診療所において死亡したほか、別紙一覧表(略)記載のとおり乗客および車掌がそれぞれ傷害を負つたことが認められる。

第二、そこで本件事故が被告人の過失によるものか否かについて検討する。

一、検察官は、現場附近が、通称けんか山の頂上から一、〇〇〇分の一七の下り勾配になつており、しかも当時激しい降雨で路面が濡れ、車輪が滑り易い状態になつていたのであるから、被告人は排気ブレーキを操作するなどして適宜減速して車輪がスリップしないようにして進行すべきであるのにこれを怠り、時速九〇キロメートルの高速度のまま漫然前記下り勾配の道路を走行し、惰力によって時速九八キロメートル位に加速させた過失により、本件バスの前車輪を左に横滑りさせたと主張する。

(一)  前記(1)の各証拠および(7)(証拠略)を総合すると、名神高速道路の現場附近は幅四・四メートルの中央分離帯によつて上下線が区分されており、上り線は外側から幅二・五メートルの路肩、各三・七メートルの走行車線、追越車線があり、路肩の外側にガードレールが設置されていること、通称けんか山の頂上附近から現場附近にかけては直線コースで、けんか山の頂上(五二・五キロポスト)から五四・〇キロポストまでは一、〇〇〇分の二五、五四・〇キロポストから五四・八キロポストまでは一、〇〇〇分の一七の下り勾配で、五五・二キロポスト附近からは上り坂となつていて、現場附近は谷底状の底辺に近い位置にあること、現場附近は昭和四〇年六月七日追越車線を、同月一一日走行車線を補修したが補修状況が悪かつたので、同月二〇日頃追越車線全部と走行車線の追越車線寄りの幅三メートルの部分を再舗装したこと、五四・六キロポスト附近の路面は走行車線の路肩寄りの再舗装しなかつた部分が幅約三〇センチメートルにわたつて路肩側へ高さ二ないし三ミリメートル盛り上つていること、五四・八キロポスト附近における時速八〇キロメートルの湿潤路面のすべり摩擦係数が橋の上で〇・三六五、橋上以外の車線で〇・三六一で限界ぎりぎりの路面であることが認められる。

(二)  前記(1)(2)(5)(6)の各証拠および((8)~(10)の証拠略)を総合すると、当時現場附近に降つた雨はにわか雨で、午後四時二二分頃京都深草バス停留所で乗客一名が降車した時は、小降りであつたが、本件バスがけんか山の頂上にさしかかつた頃からかなり強く降つて強度二となり、雨水は路面の中央分離帯から路肩の方に流れていたこと、午後四時三〇分頃には強度一から零へと弱まり、事故後実況見分が始まつた午後四時四五分頃には雨は降つたりやんだりであつたこと、午後四時から五時までの一時間の雨量は約二〇ミリメートルであつたこと、現場附近の地形は谷底状の底辺に近い位置にあるため坂の上からの流水と降雨によつて水溜りが発生し、水深が三ないし八ミリメートルあつたこと、風速一・二ないし二・二メートル毎秒の東寄りの風があつたこと、視界は約二キロメートル前方に走つている車両を識別できる程であつたことが認められる。

(三)  前記(1)(4)(5)の各証拠および(11)(証拠略)を総合すると、現場附近は最高速度一〇〇キロメートル毎時、最低速度五〇キロメートル毎時に制限されていたこと、被告人は本件バスの速度計によると時速約九二キロメートルで現場附近にさしかかつたこと、本件バスの速度計は、実際の走行速度よりも時速三ないし四キロメートル低く表示していたこと、本件バスのタイヤの残溝は、右後輪内側タイヤの外溝が左輪よりも〇・五ミリメートル少ないのを除き、中央溝、外溝共左輪が右輪よりも前輪において〇・五ミリメートル、後輪において〇・五ないし一・三ミリメートル少いこと、本件バスには他に何ら異常がなかつたことが認められる。

(四)  前記(1)(4)(5)(6)(11)の各証拠および(12)(証拠略)を総合すると、被告人は本件バスをけんか山まで時速約八〇キロメートルで進行させ、下り坂になつて事故現場の約一キロメートル手前で少し加速して先行するトラツクを追い越し、走行車線を本件バスの速度計の表示では時速約九二キロメートル(実際の速度は時速約九六キロメートル)で進行中、勧修寺橋東北角から東方へ約一七・六メートルの地点で、前輪が浮き上つて油の上に乗つたような感じで左へ滑り始め、前記第一のとおり本件バスは約二五〇メートル蛇行したうえ、中央分離帯に乗り上げて横転したことが認められる。

(五) 前記(9)(10)の各証拠および(13)(証拠略)を総合すると、降雨や融雪で水深二・五ミリメートル以上の所を自動車が高速度で進行すると、いわゆるハイドロプレーニング現象が発生する、即ちタイヤと路面の間に水が侵入し水膜が形成されて、タイヤは水膜の上に乗り上げ路面から浮き上つてしまうため、路面との摩擦係数は〇・一以下に下つてしまい、その結果自動車は安定性、操縦性を失つて滑り易くなり、僅かの外力によって横滑りを起すようになること、本件バスの場合時速約一〇〇キロメートルでハイドロプレーニング現象が生じること、タイヤの溝の深さ、形、空気圧、水深、路面の状態の差異によって、前後左右の車輪に均一にハイドロプレーニング現象が生ずることはなく、部分的ハイドロプレーニング現象が生じる場合があること、路面の摩擦係数が低いとハイドロプレーニング現象が発生し易く、部分的ハイドロプレーニング現象が発生していても完全なそれと同じような滑り易い状態になることが認められ、前記の現場附近の諸状況、本件バスの進行状況とを併せ考えると、本件バスは部分的ハイドロプレーニング現象により横滑りを起したものと推認することができる。

(六) 前記(5)(12)の各証拠および(14)(証拠略)を総合すると、名神高速道路は我が国初の高速道路としてその信頼性は高く、関ヶ原、羽島附近を除き、最高制限時速一〇〇キロメートルとされており、現場附近は滑り易くかつ危険な個所とは全然指摘されておらず、何らの規制も加えられていなかつたこと、現場附近は見通しのよい直線コースで先行車は約二キロメートル前方にあつたのみであり、一般道路と異なり雨天の場合でもスリップの心配はなかつたため、晴天のときと同一の運転方法で進行してもよいと指導されていたこと、本件バスは定期バスで時刻表に従い運行し、区間所要時間、速度は原則的に定型化されていたこと、被告人は日本高速自動車株式会社が昭和四〇年三月六日開業以来、名神高速道路の高速バス運転に従事し道路状況を熟知しており、本件バスを五、六〇回運転して運転操作に慣れていたこと、被告人はその間、ハンドルやブレーキ操作をしないのに車輪が浮いたようになつて横滑りしたという経験は一度もなかつたこと、本件バスの乗客は七名であつて加重が少ないのと、本件バスはエンジンブレーキがよく作動するので、被告人は坂を下る際に惰力による加速は少いものと判断し、エンジンブレーキのみで排気ブレーキを使用せず、また被告人が確認した速度計の表示は時速約九二キロメートルであつたことが認められる。

(七) そうすると、本件バスが進行中に現場において突然横滑りをしたことは、被告人として予見できなかつたこであり、かつこれを予見しなかつたことについて過失はなかつたと言わざるを得ない。

二、更に検察官は、車輪が滑走するような場合には、被告人は即時排気ブレーキを操作するなどして減速の措置を講じたうえ、ハンドル操作を特に慎重にすべきであるのにこれを怠り、即時減速の措置をとらず、かつ適確なハンドル操作をしないで、あわててハンドルを右、左にきつて進路をたて直そうとした過失により本件事故を惹起したと主張する。

(一) 前記(5)(6)(12)の各証拠によると、被告人は前輪が浮き上つて油の上に乗つたような感じで左へ滑り出し、道路左端のガードレールに接近したので、ガードレールを越えて転落するのを防ぐため、後方の車両などに注意して右へハンドルをきつたが、今度は中央分離帯に接近したのでハンドルを左へきった。しかし再びガードレールの方へ寄つたので再び右へハンドルをきつたところ、中央分離帯へ右側車輪が乗り上げて本件バスは横転したのであつて、被告人はあわててしかも急激にハンドル操作をしたものとは認められない。また被告人はフートブレーキを踏むと雨中速度が出ていることでもあり、横転する危険があると思いフートブレーキを踏まないで、前輪が横滑りを始めてから約五二メートルの地点で、排気ブレーキの操作をし減速の措置をとつたが、いずれも部分的ハイドロプレーニング現象により効果がなかつたものである。

(二) 前記(10)の各証拠によると、部分的ハイドロプレーニング現象が起ると自動車の安定性操縦性は激減するため、急激なハンドル、ブレーキ操作を避け、操縦性が一時的に回復するのを待つて自動車の安定を増加させ減速の措置をとる必要があるが、自動車が揺れるとハンドル操作が困難になり、しかも四輪共均一にハイドロプレーニング現象が発生するとは限らず、僅かなハンドル操作によつて車体が異常に方向転換をする場合もあり得ること、ハンドルを固定して車輪が滑るままに委せ、ハイドロプレーニング現象の消失を待つことも一方法であるが、これによつて車体が元の進行方向に復する保証はなく、道路外に飛び出す危険性があること、現場附近は盛土であつてガードレールの外側は崖になつていて、本件バスは大型バスであるため、ガードレールに激突すれば支えきれず崖下に転落する危険があつたこと、前輪が横滑りを始めてから車体が横転するまで約九秒間しか余裕がなかつたこと、当時ハイドロプレーニング現象に関しては、自動車工学やタイヤメーカーの研究者にしかその知識はなく、道路管理者、警察関係者、運行管理者、自動車運転者においては、殆んど知られていなかつたことが認められる。

(三) そうすると、本件バスが横滑りを始めてから被告人がとつた前記(一)の措置は、バスの運転者としてとるべき措置をとつたものであつて、この点につき被告人に措置上の過誤があつたものとは認められない。

三、被告人の検察官および司法警察員に対する各供述調書中に、自己に過失があつたことを認める趣旨の供述記載があるが、これは単にあとから考えて、こうすれば本件事故を避け得たであろうと述べたにすぎず、これをもつて直ちに被告人の過失を認めることはできない。以上被告人に対し、本件業務上過失致死傷の責任を負わせることはできない。

よつて、本件公訴事実は犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し主文のとおり無罪の言渡をする。

別紙一覧表(略)

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